#TVOD Essay26 自分の居場所と、その外側/comeca
「自分の居場所」というものについて、最近よく考える。「ここが自分の居場所だ」と思える場所があると、人間は安定する。そして大抵の人間は、そういう「自分の居場所」を求めたり、手に入れたそれを維持しようとしているところがある。…というかまあ、「自分の居場所」が完全にどこにも無いと感じることは人間に強い不安をもたらすので、実際問題生きる上で何らかの「自分の居場所」を探す必要はどうしても出てくる。
ただ、誰もがそういう「自分の居場所」のことしか考えなくなった社会は、徐々に行き詰まる。沢山の人々それぞれによる無数の「自分の居場所」が共存する場が社会であり、その調整や運営に銘々が能動的に参加しなければ、必然的にその社会は機能不全を起こす。
だが例えば今の日本社会では、個々の人々が「自分の居場所」の外側に対して目を向けることを放棄しつつある。自分の身内で構成される「自分の居場所」が楽しく気持ち良く機能しているのならばそれでいい、それ以上面倒なことには関わりたくない、という感覚。
何しろ、国の総理大臣がそういう身内贔屓ばかり繰り返している人間なのだから、何をか言わんや。今この国で安倍晋三が支持されているのは、謂れのないことではないのだと思う。「自分の居場所」の中に引きこもっていたい、その外側に目を向けるのは怖い、しんどい、めんどくさい…というのが、日本社会に漠然と共有されている感覚なんだと思う。
かつてカウンターカルチャーやサブカルチャーに惹かれていった人々には、あらかじめ決められた「自分の居場所」に対して反発し、そこから「外側」に向かっていった者が多くいた。まあ結果はどうあれ、新左翼にかぶれることも、ロックや演劇に没頭することも、「外側」へ向かう契機にはなったところがあると思うのだ。もちろんその先で新たな「自分の居場所」に引きこもった者もいただろうし、「自分の居場所」を失って行き倒れた者もいただろう。それでも、一度は「外側」に出ていこうとした若者が多くいたことは確かだと思う。
今のサブカルチャーでは、「自分の居場所」を如何に上手くつくるかが重要になっている。SNS以降の世界というのはそういうものだ。それは今の状況下における生存戦略としては確かに重要なことだし、決して悪いことではない。政治や経済のレベルで個々が孤立化し衰弱させられていく時代の中では、それぞれが「自分の居場所」を探すことは確かに必要なことだ。
ただ、そこまで踏まえた上で、「自分の居場所」からフラッと出ていってしまってもいいんじゃないかと思うんだよな。私たちはたぶん誰もが、そのことに対して不必要なまでに脅えている。「自分の居場所」の外側に一歩出た途端、あっさりと食い殺されてしまうんじゃないかという恐怖を、みんな過剰に抱えている様な気がする。
でも実際は、人間は案外そんなに簡単には死なない、と思う。
生きるために必要な「自分の居場所」が、いつの間にか自分の生き方を規定し始め、そこから出ることを過剰に恐れるようになる。誤解しないでほしいんだけど、ぼくは別に、だから今すぐ外国に行って自分の知見を高めよう、とかそういうことを言いたいんじゃない。自分にとって居心地の良い「自分の居場所」の外側にある場所に目を向けて、そこに少し足を踏み出してみるだけで、実はすごく楽になれるところがあるんじゃないか、と言いたいのだ。
自分の身内ではなく、「他人」と出会える場所は、「自分の居場所」の外側にこそある。コミュニケーションの網の目を張り巡らせて「自分の居場所」をつくることとは別のやり方でしか出会えない「他人」。そういう存在に出会うことこそが実は、私たちを恐怖から救ってくれるんじゃないだろうか。そのことは、「自分の居場所が無い」という不安を解消することよりも、実はずっと大切なことなんじゃないだろうか。
そして、そういう風に「自分の居場所」の外側に気軽に出られるようになって初めて、社会の公平な運営に参加することに、人は能動的になれるんじゃないかとぼくは思っている。