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【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】理性寺跡の不幸は大黒様の因縁か? 大国座その後。 | 遁生レコードの世界
続きです。 四谷大木戸の象徴ともいえる理性寺移転後の跡地の歴史に関して、「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)は多くの紙数を割いています。 引き続き追いかけてみます。 小林喜三郎も連鎖劇で興行に関わった大国座は、オープンの翌年の1918年(大正7年)2月18日に漏電から火災を起こして消失してしまいます。 焼け残った外郭のレンガを使って6月8日に再び開場し、経営は建設工事を請け負っていた吉原組が吉原組興行部を立ち上げ、「二流芝居」を銘打って、大衆演劇に特化することで人気の劇場となったそうです。 しかし、1923年(大正12年)3月9日にまたも漏電火災で全焼してしまします。 復興は7月に地鎮祭を行い、8月に基礎工事を完了したところで、9月1日の関東大震災により工事が中断、ようやく三度目の開場式を迎えたのは翌1924年(大正13年)1月22日のことでした。 4月興行で守田勘弥、沢村宗之助(初代)一座を招き満員の好況を続けますが、興行6日目の4月8日夜の部「壺坂霊験記」の山場で、沢村宗之助が舞台を中断し、その後楽屋で39歳の若さで急死してしまうという不幸の現場となってしまいます。 沢村宗之助(初代) 1886-1924 明治-大正時代の歌舞伎役者。 明治19年3月9日生まれ。7代沢村訥子(とっし)の次男。初代助高屋小伝次の弟。明治22年初舞台。子供芝居で活躍。36年「ジュリアス=シーザー」を英語で演じ,川上音二郎劇団,自由劇場にも参加。のち帝国劇場の幹部俳優となり,女方,立役(たちやく)のいずれもよくした。大正13年4月8日死去。39歳。東京出身。本名は伊藤三次郎。俳名は杏園。屋号は紀伊国屋。 (デジタル版 日本人名大辞典+Plus) その後、映画の台頭と新宿の繁栄のため、改革を余儀なくされます。 それまで枡席だった座席を椅子席に改装、1929年(昭和4年)1月に株式会社山手劇場として、新国劇の沢田正二郎一座を迎えたこけら落とし公演を行い好評を得ます。 枡席:安政5年 (1858) の江戸市村座(ウィキペディア「升席」の項より) 【沢田正二郎】(1892~1929) 俳優。東京生まれ。早大卒。芸術座を経て1917年(大正6)新国劇を創立。「月形半平太」「国定忠治」などの剣劇もので大衆劇に新境地を開き,「沢正(さわしよう)」の名で親しまれた。