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サーヴィス業は奴隷?
相互依存(interdependence)、それはあまりにあたりまえすぎる事実だと言ってよい。個人として生きるというのは、じぶんの面倒をじぶんで見るということだ。食べたいものを食べ、入浴したいときに入浴し、見たいものを見る。そういうセルフ・ケアが独力でできなくなったときは(すでに見たように、そういうセルフ・ケアも実際は見かけのうえでしかなりたっていないのだが)、他人の手を借りるしかない。これもあたりまえのことだが、それがいまの社会のようにひとびとの協働体制がはてしなく複雑に機構化されてくると、他人の手を借りていることじたいも見えにくくなる。 鷲田 清一, 内田 樹 『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 P.58 見えにくくなったとき、もっとも基本的な人の営みは、家族や地域の共同の営みから外へ出ていった。その事実に気づきにくくなった。公共サーヴィスや民間サーヴィスが見えにくくしているときも。共同の営みに必要な時間をサーヴィスに代行させることによって、個人は「自由の時間」を獲得した。 自分が無知でよかったと思う。サーヴィスの語源を知ったときから目の前のサーヴィスを仕訳するようになった。語源を理解したサーヴィスか否か。食事、排泄、洗濯、介護、葬送、教育.....。「がんばれ」という声のもと、セルフ・ケアへ誘われる。セルフ・ケアが依存へ反転するのはいつかを告知しないのに。 いい介護施設というのは、大声がしない。だれかを呼んだり、何かを指示したりする大きな声が聞こえない。そこには場面が煮つまりだしたときにかぎってたまたまだれかが通りかかり、ふと場面が変わるといった僥倖のようなことが起こりやすいのだろう。 そういうい場をどのように作るかに腐心したほうがいい。ちょうど子育てや教育において、子どもをどのように育てるかではなく、子どもが勝手に育つ環境をどのように作ったらいいかと腐心することのほうが大事なように。 鷲田 清一, 内田 樹 『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 P.100