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[Review]: 文章読本さん江
ブログをはじめて5年目に突入した。裏ブログの最初の頃を読み返すとフルチンで町中を疾走しているような気分。ブログB.C.から「文章読本」なるジャンルに興味をいだき、『谷崎版文章読本』でデビューをはたし、『三島版文章読本』で打ちのめされ、論文の書き方で路頭に迷った。おお、斉藤美奈子氏が御三家と銘打つではないか!「私は、文章に実用的と藝術的との区別はないと思います」を説き、世に衝撃を与え、1934年に刊行された谷崎本をもって「文章読本」の嚆矢とされる(って私が勝手に書いてるだけ)。衝撃。そ、そうなんだ、自分の云いたいことを明瞭に書けばそれでいいのか、バンザーイ。意気揚々とブログを書く。書けない。呆然。やや、これはマズイ。今度は三島本に手を出す。「観賞用の果物/実用的な果物」と比喩して谷崎本を痛罵しているのを読み、深い絶望の淵に立たされた。え~い、だったら、観賞用文章と実用的文章やら自分の云いたいことを明瞭に書くとかに惑わされず、論理的に書いたらどっちつかずでイイだろ!と思い清水本へ逝った。ここから冥想、いや迷走がはじまる。 まるで「食品本」のように。 殊勝な態度で文章読本を読んでいた時期が、かつては私にもありました。 それがいつ、どんな事情で「もう降りた」になったのか、具体的には思い出せません。[...]いずれにしても、いまの私は「上手な文章」などに何の興味も未練もなく、おかげで文章読本も無責任な野次馬の立場で鑑賞できるになりました。外野席から眺めると、ありがたいはずの文章作法が、あら不思議、滑稽なドタバタ喜劇にも見えてくる。名文家をめざすみなさまには、くれぐれも私の轍を踏まないようにと注意を促しておきましょう。『文章読本さん江(ちくま文庫 さ 13-4)』 P.339 ブログ全盛の時代、「文章読本」は姿を消したけど、「文章の書き方」系は次から次へと出版される。もう、ガチな文章読本は拒絶されるから、「こうやったら文章って書けるよ」みたいなライフハック系でライトな感じで。ついには魂の文章術―書くことから始めようなんてタイトルが登場してスビリチュアルへきたかと遠くに目をやり気づいたらアマゾンでポチ。とにかく書けだと。悟りだ。 文章読本は食品本と同じ 食品本は 「食生活に関する本を1冊も読まない人は、たくさんの種類をとることがバランスのよい食事と考え、10冊読んだ人は極端な理論に目が奪われ、30冊読むとノイローゼになり、100冊読むと何も食べられなくなり、200冊読んでやっと落ち着く」 と揶揄される(参照): 粗食で生き返る)。「健康に神経質な人は早死にする」のでと訝り、「文章読本に神経質な人の書く文章はオモシロクない」という規矩を持つ私にとって、『文章読本さん江』は「文章読本の空間にいてるからノイローゼになるんだよぉ、メタに来な」と声をかけてくれた気分。 巻末の引用文献/参考文献121冊を眺めて、自分の状態が「100冊読むと何も食べられなくなっている」と確認。諦観じゃないけど、「もうなんでもエエやん、おもしろければ」とクルっと一回転。 文章を書くとき音読してみな 「ほにゃららほげほげウンコだが」の「だが」に違和感を抱き、その後を読むと、「だがなのに否定形じゃねぇのかよ!」とツッコミをいれたり、「が」と「は」の使い分けに頭が禿げたり、「こと」が連発している文章に血圧が上がったり、どこに修飾しているのかワカラナイ「迷子の形容詞」に「迷子になりました」とアナウンスしたりした懐かしい日々。懐古だ、昭和30年代。あのころはよかったよ。 「色々」とか「たくさん」とか書くのに「色々」も「たくさん」もなかったり、「など」を書くのに「ひとつ」しかなかったり。 いろいろあるよおっかさん。 そんな懐かしい日々をくぐりゆけてきてたぐりよせた一筋の糸。「書き終えたら音読してみよう。自分の声を自分の耳で聞けばわかります」の結論。 「文章はコミュニケーションの道具」は当たり前の結論のようだけど、そうじゃない。文章が「特別」だった時代もあり、文章自体が「貴族」でもあった。それが、今、ブログ全盛の時代になって気づきはじめた。 逆に言えば、これまでモノを書いて情報を発信してきた人たちが、いかに「ほんのわずか」であったかということに改めて気づく。そしてその「ほんのわずか」な存在とは、決して選ばれた「ほんのわずか」なのではなく、むしろ成り行きでそうなった「ほんのわずか」なのだ 『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる(ちくま新書)』 書いていたのは「ほんのわずか」でもコミュニケーションをとるのは「ほんのわずか」じゃない。で、天に唾はくと、「コミュニケーション」って言う人ほど「自分の書いた文章を音読するよう」にオススメします。あっ、つばが掛かっ。 あっ、そのまえに『文章読本さん江』を。