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たまたまと比較する心
ブロゴスフィアで「格差社会」を書くとき、丁寧に弁証を積み重ねていくか、奇抜なアイデアを持っていないかぎり、「虎の尾」を踏んでしまう。わたしは、そのいずれの才もないので書けない。けど、やっぱりじぶんも参加してみたいなぁという欲望もあって優柔不断。なので、コピー&ペーストの「引用」と「転載」で自慰行為をしてみようかと。以下、引用。愛読ブログからふたつ。 内田樹の研究室: ジニ係数って何? 私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。かつて「一億総中流」という認識がひろく流布しているときには(実際には天地ほどの所得差があったが)日本人は一億総中流気分であった。それと同じように「格差が広がっている」という認識がひろく受け容れられているときには、(実際に所得差がそれほどなくても)格差「感」は強く意識される。[...]人は自分の等身大を原器としてしか、所得差の意味を測ることができないのだが、人が「自分の等身大」と思っているものは、ほとんどの場合、イデオロギー的構築物なのである。 コメント欄がいくぶんにぎわっている。日中関係を述べたときほどでもないけど、内田樹先生のときおりのぞかせる「フツーに考えましょ」的な理路に読み手は反応する。内田樹先生の著書をこのブログやもうひとつのブログでレビューしてきた。批評できるわけもなく、「書いてある意味がわからない」とじぶんを罵りながらいつも読了する。で、そうやって「頭が内田樹」状態になっているとき、先生の「格差社会」にふれると、毎度、奇妙な感覚に襲われる。なんというか、先生の論考は「オーダーメイド」の服を着るようにわたしの身体にしっくりくる。なのに、「格差社会」のテキストになると、「既製服」を着ているみたいで物足りない。 うまく表現できない。借用すると、「分かりやすすぎる」と思う。わたしが「分かりやすい」と感じるのだから、他の読み手の方々は言わずもがな。先生のフレーズが頭に浮かぶ。 私は分かりやすい話は嫌いではありませんが、「分かりやすすぎる」話は警戒することにしています。『大人は愉しい』 P.232 「格差社会」を論じるとき、「日常」を捨象して数値と概念を述べると、「現場」からクレームがくる。他方、「現場」を語ると、形而上から鉄槌が下される。そこの舵取りが難しいのだろうなぁと、書いたことのナイじぶんは推し量る。 そんな邪推を挿入すると、finalventさんの日記はステキだなぁと感じ入る。語感が気持ちいい。ちょうど同じ日のエントリー。 finalventの日記: 格差社会の原因 他人と自分を比較して、他人がうらやましいポジションにあるのが偶然的なあるいは恣意的な要因によるという考えをいろいろな理屈で合理化するから、だよ。 お二人の思考に何が伏流しているのかさっぱりわからないけど、「あれ、一瞬、似ているのかなぁ」とよぎった。けど、「ああ、違うや」とひとりごちた。たぶん。 「自分の等身大」のズレについて平仄をあわせている。「たまたま」と「比較する心」だと。そして、「たまたま」と「比較する心」といえば、池田晶子さんがみごとに認めていらっしゃる。以下、転載。ご容赦を。 「いま普通に生活できている」、これがどの程度のことを言うのか、私にはわかりません。「こんな程度」ということを、言うことができるとは思えません。[...]衣、食、住、どれも同じ。すべてそう。「あの人の方がいい」。だとしたら、「格差」というのは、ひょっとしたら、外にあるものではなくて、内にあるもの、その人の心の中にあるものではないか。比較する心そのものなのではないか。 私はまだ「食うに困る」ところまではゆかないので、これはちょっと断言できませんが、あるいは実際に、「食うに困る」人々が、現代日本にも出現しているのかもしれない。だとしたらそれは大変なことだ。生活すること、生き延びるというのは、本当に大変なことだ。だけど、そんな時、私ならこんなふうに考えてみるのだ。 かつての身分制社会の時代は、もっと大変だった。あるいは現代でも、インドのカースト社会なんてのにも凄いものがある。そういうもっと大変な時代、大変な場所に、たまたま自分は生まれてこなかった。 この「たまたま」というのが、こういう考え方をする場合のミソでありまして、実際、なぜ自分はここに生まれて、あそこに生まれなかったということは、考えても、理由がない。理由が見つからない。ということは偶然である。したがって絶対である。 この、偶然的なことが絶対的であるという原点に気がついてくると、自分の人生に、言ってみると、腹が据わるんですね。人と比較するということがなくなるんですよ、だって絶対なんだから。自分の人生はこうであり、これ以外ではあり得なかった。こうわかっているなら、あとは黙って生きるだけだ。 [...] 実際、人が自分の人生に苦しくなるのは、今のこの人生がすべてで、これしかないという仕方で絶対だと思っているからでしょう。そう思うから、それを自分で何とかしようともがくことにもなる。 でも本当はそうじゃないんですよね。自分の人生がこんなふうだなんてのは、たまたまのことなんです。たまたまこうなだけなんだから、それを自分でどうこうしようとか、頑張ることはどうもないようなんですよ、本当は。 だけど問題は生きるか死ぬかなんですよ。 言いたくなります。むろんです。でもその生きるか死ぬかの問題を、よく考えてみると、どういうわけか、こういうことになってしまうのだから、人生とは妙なものだ。 [...] どうも私は万事につけ、極端に考える癖があります。でも考えにおける極端が、暮らしにおける中庸として現れるなら、おそらくそれは間違っていない。すべてを相対化する絶対的な視点から、「たまたま」こういう時代である、「たまたま」私の人生である、とこう気がつくと、人はすごく広い時代へ出られます。これはなかなかイイ感じ、たいそう自由な感じです。『暮らしの哲学』P.15-18 池田晶子さんの書籍を出版の古い順から新しい順へと読み進めると、「思考の変遷」がほんの少しだけ肌で感じられるような気がする。 それは、とおいとおい先に、何か識別できない物体に目をこらして、いざ近づくと、また遠くに見えるような気分。自分への絶望なのだと思う。でも、なんとか池田晶子さんの「思考の変遷」をつかまえてみたいという希望。その両方を抱えて「格差社会」に向き合うと、私の場合、「たまたま」だけども、「広い」ところへ出られたような錯覚を味わっている。 たまたまこういう時代、ブログがあって、そこから内田樹先生の考想とfinalventさんの日記を拝読できて、さらに池田晶子さんの書籍と重ね合わせられる。なんて贅沢なんだと感謝する。