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「空気を吸う」(サポーター 公演感想)
☆実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』東京公演 例えば、ひとつひとつの動きがある種の記号であると考える。それはローマ数字やピクトグラムのような、あるいは象形文字のようなそれ自体がハッキリとした意味を持つ記号と考えることもできるが、ここではむしろ平仮名やカタカナ、アルファベットのように個々には意味を持たないが、いくつかが連なることで単語あるいは文章という意味性を持つ"意味のない記号"と考えたほうが面白い。 すると、さまざまな方向から(上からまでも!)現れる記号は、まさに頭の隅々から次々と現れ、それが連なることで文として成り立っていく文字要素という記号に似ていることに気が付く。 ひとつひとつの動きに意味を見いだすことはできなくても、その出現の仕方、場所、方向、そして次の個との連なりなどによって確かに揺さぶられる心情。なるほど、これは文章なのだ。 思えば、そのヒントはすでにタイトルにも内包されていた。『ROOM』ではなく『R.O.O.M.』。この4つのアルファベットに、それぞれ意味は割り振られているが要は一文字一文字が記号として独立した個、ということではないか!・・・と、一人悦に入ろうとした瞬間、その思考は簡単に打ち砕かれた。 こういう時、私の浅はかで理屈っぽい思考を無下に打ち砕くのは、いつも井関佐和子その人。そこに舞い降りた(そう、文字通り降りてきた!)彼女は、まったくもって記号などではなかった。 記号と言うには、あまりに自在で記号としての定型感がなく、それはむしろ色とか雰囲気とかニュアンスといった種類に近く、いわば、さまざまな記号を包み込むように漂う空気感のようなものだ。 それは、読み解くものでは無く吸い込むものなのだ、空気のように。 だとしたら、包まれる記号と包む空気との関係とは何か。いや、この舞台において両者はそのように対峙するものなのか。そもそも"両者"と区別すべきものなのか・・・だが、違う、明らかにそれは種が違うのだ。 という、いつもの疑問に辿り着いた頃、無情にも『R.O.O.M.』の幕は下りた。 Kinya(2019.2.23:吉祥寺シアター)