nakamuratadashi.com
プロフィール | ぶ厚い手帳:コピーライター中村禎の場合
2005年撮影 1957年10月3日福岡県北九州市門司区生まれ。 18才で上京し、横浜磯子図書館で見た『コピー年鑑』で 広告をつくる職業があることを知る。 成蹊大学在学中に 宣伝会議コピーライター養成講座一般コースへ通い始め、 そこで一回でも褒められたら広告業界を目指す、 ダメだったら別の道を探す、という覚悟を決める。 1980年 J.W.トンプソンに営業職として内定。 新入社員1年目からクリエィティブ局への転局活動を開始。 当時トンプソンの仕事を「自分ならこうする」というCMを ビデオで撮影し、コピーを書き、会社にプレゼンをする(作戦A) さらに、他社のコピーライター試験を受け、 その内定通知を束にして人事局に直談判をしようと計画(作戦B) 最初に見つけた求人広告が「サン・アド」だった。 「経験者に限る」という条件を見なかったことにして 履歴書と課題の作文を送る。 筆記試験、面接を経て、サン・アドから内定をもらう。その頃、 トンプソンでもクリエィティブへの移動が確実になったと知らせが入る。 一ヶ月迷って、サン・アドへ。 1981年8月3日 丸の内1−1−1パレスビル9Fに初出社。 「サン・アド 仲畑チーム コピーライター 中村禎」 という名刺を手にする。 1982年 東京コピーライターズクラブ最高新人賞。 誰も起こしてくれない一人暮らし。悪いのは誰だ。アッ僕、か。 アイツは時間にルーズな奴だと思い込まれつつある。マズイ、マズイ。 技術は未熟だが、独特の図太さを持つコピーライターは 師匠仲畑貴志の背中を見て育つ。 リクルート「とらばーゆ」の仕事で コピーライター、クリエィティブ・ディレクターの経験を積む。 プロの男女は差別されない。 働いているだけではプロにはなれない。 30才が近づき、仕事量の少なさに不安を覚える。 試合に出なければ上手くなれない。 1988年 コピーライター養成講座の講師でもあった岡田耕氏と 大島征夫氏(のちに大島部員となる)から電通に誘われる。 電通クリエィティブに初めて「途中入社」という「外部の血」を入れて クリエィティブ局を活性化させたいと言われ、張り切る。 しかし、環境の違いに馴染めず、異端児。転職失敗か。挫折。 高梨駿作CDからキリン一番搾りのチームに誘われる。 営業からマーケからSPから、チーム全員が優秀。