ecrito.fever.jp
誰がために「境界線」はある――『岬の兄妹』論
 笑いとはなにか。極言するならば、「線を引く」行為である。 たとえば、漫才などを思い浮かべてみよう。以前筆者が参加したライブから例をあげると、そこでは魚を「溺れ死にさせる」と水に投げ込む男のネタや、イヌイットの家族にクーラーを売りつけようとするセールスマンのネタなどがあり、多くの観客が笑いに包まれていた。筆者もまた、そのご多分に漏れなかったが、では、なぜ笑ったのだろうか。一義的には、ボケる側の演者の言動、もしくは行動が可笑しいからに違いないが、よりふみこんで言えば、自分たちの考える常識との「ずれ」があるからではないだろうか(もちろん、同調の意味での笑いもあるだろうが、ここではとりあえず不問とする)。 つまり、多くの笑いにおいては、観客が意識的かそうでないかにかかわらず、その対象から一歩引くような、自分との「ずれ」の意識――それは容易に対象への優越感情にも変化しうる――が介在しているとも言えるのである。笑いが生まれる場においては、演者と観客(これはもちろんパフォーマンスの場のみではなく、日常的な場面に置き換えることが可能である)のあいだに、ある一定の線がたしかに引かれることとなる。 『岬の兄妹』(C)SHINZO KATAYAMA 足をひきずって歩く兄と、自閉症をもつ妹。ともに障碍をかかえた兄妹が、自分たちが生きるために「売春ビジネス」へと踏みこんでいく過程を描いた『岬の兄妹』は、笑いの存在をはじめ、いくつもの「境界線」――観客と登場人物との明確な距離――の存在を感じさせる作品である。その前提となるのは、本作のきわめて緻密に設計された細部の存在だ。本作は「障碍者の売春ビジネス」というシリアスなテーマを扱いながらも、その重さ、もしくは単一のイデオロギーに収斂されることなく、さまざまな魅力的な細部が浮かび上がってくる。おそらく、本稿における「境界線」の解釈は、こうした魅力のわずかな切り取りにすぎないだろう。細部の豊饒さは、本作が傑出した作品であることのひとつの証座でもある。