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世界は写真の中で逆流する
店のウェイターに食べ終わった皿を下げてもらうと、彼女はおもむろにパソコンを鞄から取り出し、テーブルの上で開いた。そして、淡々と自分の撮った写真作品を私に見せ始めた。 彼女は特に作品を解説するようなことはせず、ただ長い間隔を置いて、写真を次から次へとめくっていった。私もただ黙ってそれらの写真を見ていた。それはきわめて日常的な経験であると同時に、今では得難い「凝視」の経験でもあった。 彼女の名は姚瑶(Yao YAO)。中国の若い写真家である。口数が少なく、物静かな女性だった。不思議な形をした赤いベレー帽をかぶっていた。彼女の写真作品もまたとても静かで、色使いと構図に不思議な透明感を湛えている。 厳密に言うと、彼女の写真は「アート」ではないのかもしれない。なぜなら、ある言説と文脈の中で何らかのメッセージを伝えようとしているわけではないし、写真を折りたたんだり燃やしたりする類の、写真というメディアの物質性を操作することでその「真を写す透明さ」に疑義を挟むようなアートからすればあまりにも「強烈さ」が欠けていて、あまりにも「素朴」に見えてしまうからだ。 このことはその制作方法にも現れている。彼女は一眼レフやレンジファインダーカメラなどのプロ仕様のカメラをいっさい使わず、iPhone 6sのカメラのみで制作を行なっている。フィルターなどを使った写真の編集もいっさい行なっていない。プリントのサイズも9cm×9cmときわめて小さい。 しかしそれは逆説的にも彼女の写真に批評的な地位を与えてしまう。ある中国の写真家が「もう何回も見ているけれど、なぜ日本の若い写真家たちはみな写真を折りたたんだり、燃やしたりするのだろう」と疑問を呈したのを見たことがある。つまり、何回もそういった写真に遭遇するうちに、それらの「アート」はその写真家にとってあまりにも「素朴」で「ありきたり」のものとして見えるようになったのである。 そのようなコンテクストにおいて、彼女の写真とそれに対する態度は、今日の写真というメディアの存在論的地位について考えるための重要なヒントを与えてくれるだろう。 Flâneur in Venice これから紹介するのは彼女の写真シリーズ『Flâneur in