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斎藤環の方法論を精神分析する
斎藤環のものす批評は、一見してとてもスリリングで説得力がある。だが彼の文章を仔細に読めば、そこにはいくつかの大きな陥穽が見られる。この小論では、主に彼の文芸批評に的を絞って、その陥穽の在り処を示したい。 まずは、彼の「診断」の安易さを指摘したい。文芸批評における彼の主たる方法論は、持ち前の知識を活かして、様々な病理概念を作家および作中人物に当てはめていくというものである。例えば、『文学の徴候』における古井由吉を論じた章で、『杳子』における登場人物杳子の病理を、現実のしかじかの人物であるかのように手際よく「診断」する様は、一見して鮮やかで興味深いものではある。だが、斎藤の本より25年も前に書かれた『現代文化の境界線』における上野昂志の言葉を見た後だとどうだろうか。彼は『杳子』を、あまりにも直接的に病気という題材を扱っているがゆえに、あまり買うことができないのだという。この評価の是非は措くとして、おそらく上野は、「古井は書くことのそのものの狂気を描ける作家なのだから、わざわざ物語の題材に病気や狂気を導入することはない」と言いたいのだろう。斎藤には文学を論じるにあたって、このような視点が欠けているように思われる。また古井が描く病理を診断するのは良いが、それが作品Aではこのように機能し、作品Bでは別様な効果をあげている、といった視点もない。小説の肝は、それが描き出すひとつのテーマではなく、あるテーマが他の様々なテーマといかに結びついているかという点にこそあるのに、斎藤にとって重要なのは、「作者」と「しかじかの病理」という一対一の対応関係でしかないのだ。そこに「診断」の陥穽がある。