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映画時間論序説―Dead timeのゆくえ
映画の中に流れている時間が、実人生における時間とは全く異質なものであるということに、映画を楽しむ一般の観客たちはどれほど敏感なのだろうか。そういった点にこだわりすぎると、フィクションとしての物語を楽しみづらくなる、といった意味において、多くの観客たちは積極的な鈍感さを選び取っているのかもしれない。だが、虚構と実人生がすれ違う点にこそ興をおぼえるわれわれとしては、そうした視点に貫かれた映画論の、ささやかな序説程度のものでもここに提示してみたいとおもう。 なお、予め断っておけば、『マトリックス』や『ワイルドバンチ』に見られるスローモーションや『勝手に逃げろ/人生』に見られるストップ・モーションなど、流れている時間そのものを歪めるような操作(小説で言えばこれが細密描写にあたるだろうか)は、今回の考察の対象とはなっていない。我々が注目したいのは、いわゆる「時間処理」の操作である。時間処理と一口に言ってもそこには様々な種類があることはジュネット『物語のディスクール』などがつとに明らかにしているが、その中でも今回は時間の「省略」について考えてみたい。そもそもヒッチコックの『ロープ』など特異な例を除けば、映画の上映時間よりも虚構内で経過している時間の方が間違いなく長いのだから、どの映画においても必ず省略が行われているというのが事実だ。だが実際、そのつなぎ目は巧妙に隠されるため、我々の意識にはそれが届いていないだけである。シームレスであらんとしてきた省略の、そのつなぎ目に指を入れこじ開けてみると、いったい何が見えてくるだろうか。