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問題を提起する問題作
 どこがパンクなのだろう。白井智之著の「人間の顔は食べづらい」を読んですぐ、ふとそんなことを考えてしまう。 20XX年12月31日の日本、謎のウイルスによって動物の肉は食べなくなった。動物の肉の代わりにクローン人間を食すことが当たり前となった世界。海のそばにあるクローン人間を作る工場で働く柴田和志は事件に巻き込まれた。元大臣の冨士山博巳に因縁をつけられたのである。柴田は冨士山に必死に釈明するが信じてもらえない。身の潔白を証明するために活動するも、二つ目、三つ目の事件に巻き込まれていく。 冨士山と寝たことがあるとされる風俗嬢の河内ゐのりは客として現れた柴田和志と名乗る男にパンク性を見出してつきまとう。そして彼が何者なのかを必死に追いかけるのである。 第34回横溝正史ミステリ大賞の最終選考会で物議を醸し出した問題作と評されているこの作品は、柴田和志が事件に遭遇し、河内ゐのりが柴田和志と名乗る人物像を追う二つの流れがラストで一つとなって解消されるので、ミステリとして楽しむことができる。だが、物語以上に目を引くのが『パンク』への言及なのである。 「だけど本当のパンクってのはさ、鬱憤とか苛立ちが先にあるわけ。(中略)ぐわーって感情が爆発することに意味があるんだから。(中略)パンクっていうスタイルじゃなくて、それを生み出す怒りのほうを大事にしてたからなのね」 このように作中で定義している。だが、一番パンクであると言われる人物ですらこのような感情を抱いているとは思えない。それは個人的な動機から発した復讐だからだ。ミステリの動機としては十分である。 だが、その行為が『パンク』とはどうしても思えない。パンクとは抑圧する構造を破壊し、そこから解放されることではないだろうか。その人物は確かに大きなものを破壊して解放されたかもしれない。しかし、その破壊は構造を破壊したとはとても言えないのである。 どこが『パンク』なのだろう。作中にはパンクな人間なんていやしない。しかしよくよく考えると、とても大きなものが破壊されていることに気がつく。それは作品そのものである。