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ヱクリヲ vol.3 特集 テン年代小説&D・W・グリフィス
総合批評誌『ヱクリヲ』 Vol.3 SOLD OUT/kindle版のみ ◆電子版はこちらからご購入頂けます↓↓ ※紙面をそのまま電子化したものです Contents 特集 テン年代小説 特別企画 青木淳悟インタビュー 青木淳悟は、小説とは「時間/空間」を書くものに二分できると語ります。一般的に小説の面白さとされるのは<時間>、つまり線的な展開≒物語でしょう。しかし<空間>を描く青木淳悟の小説は、プロットが用意されずに書き出され、唐突に終わります。<純文学>と聞いて一般的に連想されるのは、美しい文章表現や固有の<内面>描写かもしれません。しかし、青木淳悟は「文学になりにくい題材を選」び、「人物描写でも内面を描かない」と語ります。通常<文学的>とは見做されない紋切り型の言葉を使って、空間(物語ではない!)を描写するのです。描写でも<主体>を排除した観察を目指し、プロットも定まらぬまま執筆された青木淳悟の小説は<書く>という行為の緊張感を現前させることに成功しているのかもしれません。執筆時の環境から影響を受けた作家まで多岐に渡るインタビューです。 かなり長めのインタビュー後記、あるいは「書かれなかった青木淳悟論」のために(谷口惇) MF式『匿名芸術家』論(福田正知) ロラン・バルトは、かつて「写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に〈驚くべきもの=不意を打つもの〉となる」と語りました。青木淳悟『匿名芸術家』は、私たちが普通「文学」に期待する物語が薄弱です。「なぜ書かれたのか」という理由を欠く、土地の描写や日記が続いていくのです。作中人物の「私」は往復はがきに、今日思いついたこと/したことを左右に分けて綴ります。通常、「宛先」という目的を持って書かれる往復はがきに、誰に向ける訳でもなく書かれる理由を欠いた言葉は、果たしてバルトのいう「真に」文学たりえるのでしょうか。 「経験」と「体験」のはざまで――滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(谷口惇)