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卒中で倒れた河内屋の主人・為右衛門が閉め切った部屋で呟いた「いい風だ…」という言葉の意味するところは…。 第二章の弐 薫風(前編)1  江戸っ子たちが桜が咲くのはいつ頃かと、花見の日を指折り数えている春のことである。  上野新黒門町の薬種やくしゅ屋倉田屋の手代てだい、左吉は主人の言いつけで湯島一丁目(現 外神田)の裏店、通称〈おばけ長屋〉の、木戸を潜った。  年は二十三歳。縞の着物をきりっと着こんで見てくれはいいが、お調子者であるので店の仕事はあまり任されず、主人徳兵衛の使い走りのようなことばかりさせられていた。  左吉はそれを不満に感じてはいない。堅苦しいお店たなにずっと座りっぱなしでいるよりも、外に出て寄り道をしたり、こっそり昼酒をひっかけたりできるからである。  それに、時々、面白い用事を言いつかる。  おばけ長屋に住む修法師ずほうし、百夜ももよを訪ねる用事である。  修法師とは祈祷師きとうしのことである。  百夜は津軽の宇曾利山うそりやまで修行したイタコであった。  二年前に倉田屋で怪異があり、百夜に祈祷を依頼した。その使い走りをしたのが左吉であり、それ以来のつき合いであった。  倉田屋徳兵衛はその件で百夜の修法師としての腕前に感嘆し、以後、知り合いの大店で何か怪異があると百夜の祈祷を薦めるのであった。 「百夜さん。ご在宅でござんすか?」  左吉は腰障子を叩く。 「居留守は使わぬ」  偉そうな侍言葉であったが、声は若い女のものである。  左吉は「へっ」と笑いながら障子を開けた。  質素な部屋であった。四畳半余りの板敷きに畳はない。筵むしろが二重に敷かれているだけである。  壁際に柳行李やなぎごうりが一つ。同じくらいの大きさの風呂敷包みが一つ。中央に部屋にそぐわない欅けやき造りの長火鉢があって、鉄瓶が湯気を上げていた。  百夜は長火鉢のそばに座っていた。  少女である。  きりっとした太い眉で目鼻立ちがはっきりとした十七、八歳ほどの娘である。まぶたを閉じたままの目を左吉に向けている。百夜は盲目であった。 「今日は、頼み事があってまかりこしやした」 「お前が来るときはいつも頼み事だ。回りくどい言い方をせず、用件を申せ」  百夜の言葉に、左吉は苦笑した。
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