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死刑執行人という被害者
神戸市の女児殺害事件の裁判で被告人に死刑が宣告されました。 一般家庭の食卓では、この手のニュースがテレビで報道されると 遺族の気持ちを考えれば死刑は妥当な判決だとか、 残虐なことをしたんだから死刑は仕方ないだとか、 そういう議論とも言えない感情的な話ばかりが交わされる ワケですが、そんなつまらない話にうんざりしているであろう あなたのために、今回は少し違った視点を提供したいと 思います。 死刑の判決自体はこの国では珍しいことではなく、日本では 毎年数人から十数人程度の被告人が死刑に処されています。 当然ながら、彼らは自ら命を絶つのではなく、「誰か」が 彼らを刑に処する、つまり殺しているワケですが、 その「誰か」について思いを巡らせてみたことがある でしょうか? 誰でも想像できるように、どれだけ正当な理由があろうと、 真っ当で正常な人間が直接人を殺すことには尋常ではない 精神的負担がのしかかります。 自分が死刑執行人だったとしましょう。 周りがいくら「仕事なんだから仕方ない」と言おうが、 自分が人を殺した事実は変わらないし、自分の意識も そう簡単に変えることはできません。 仮にそれが機械によって行われるものだったとしても、 そこには必ずスイッチを入れる操作、ないしはその機械に 死刑囚をセットする存在が必要であり、その当事者となった 自分が死刑囚を殺すワケです。 死刑囚が死刑に処されることは、彼らが犯した罪の償いだから 仕方ないとしても、死刑を執行する側が、つまり何の罪もない 人間が多大な精神的負担を負ってまで死刑囚を殺さなければ ならないというのは、あまりにも理不尽だと思いませんか? 要するに僕が言いたいのは 「死刑囚に殺す価値はあるのか?」 ということなのです。 遺族の気持ちからすれば、犯人の死刑を望むことは 仕方のないことだと思います。 本当なら自分の手で殺してやりたい気持ちをグッと抑えて、 彼らはそれを法に委ねるワケです。 しかし委ねられた側は、犯人に対して基本的には何の憎悪も 怒りもありません。 遺族に共感して多少感情移入することはあるかもしれませんが、 それでも殺したいほどの感情を共有することは難しいでしょう。 そんな人が、単に「死刑になったから」という理由だけで 死刑囚を殺すことがどれだけ苦しいことかを考えたら、