y16

層とネットワーク

 昨年度、ある授業を履修したことによって、生まれて初めて読書の習慣ができた。そしてこれまで何回か、読んでいる本に集中しすぎて電車を乗り過ごすという現象が起こった。今日は久々にそれに襲われ、自宅の最寄り駅を一つ通り過ぎて、Uターンのために駅の階段を駆け上がるはめになった。

 二段ずつ階段を上がるなか、こうしたミスが起きる時にはあるパターンがあると気付いた。私が駅で降りるのを忘れてしまうほど熱中してしまうのは、読んでいる本と過去の見聞の間に、多量のつながりを発見した時だった。読書中や授業を聞いている最中に突然、それらと一見関係のない過去の講義や書物、些細な出来事との間にリンクを発見することがある。この時私は学ぶ喜びをひしひしと感じたりするのであるが、この感覚は大学に入るまで感じたことのないものだった。

 私は、学習や勉強に対して、高校生までは「層」のようなイメージを持っていたように思う。一つ一つ知識を獲得して行って、次はさらに高いレベル、次はさらに高次という風に、一つずつレベルアップしていくようなイメージである。掛け算の次は割り算、英語Ⅰの次は英語Ⅱといったように、それまでの学習は階層を少しずつ上っていく行為に近かった。しかし今日、私が対象に熱中している時は、頭の中に「層」ではなく「ネットワーク」のような構造が生まれているように思えた。脳内にはいくつか情報や知識、経験が浮遊しており、関連したものが新たに加わると即座にリンクが繋がりネットワークが複雑になっていく…。そんなイメージである。

 大学に入学したことで、人生で初めて「勉強って面白い・楽しい」という感情を抱くことができた。しかしなぜそう思うのかは明確に言語化できていなかった。だが今、その理由は「大学では層的な学習ではなくネットワーク的な学習をすることができるから」というひとまずの回答を得ることができた。もしかすると、私以外の人にとっては至極普通の事実なのかもしれないが、せっかくなのでここに書き留めておくことにする。

単色アイコン(プロフ画像)について

 先日、4月から各種ネットサービスで使っていたアイコン(プロフィール画像)を青一色のものに変更した。その変更に対して、周りから「不気味」「エラーかと思った」との声をかけられた。正直なところ、この変更は思いつきの行動でしかなかったが、その思いつきの背後には以前から友人と話し、考察したことが存在しているのではと考え、書き留めることにした。

 上図の左は、私が4月から気に入ってずっと使用していたアイコンである。中央は去年の中頃に試作した画像で、右は現在使用している画像である。左の画像は、twitterやLINEなどのサービスでずっと使用していたことから、その図像と私自身とが、友人や知り合いの意識の中では強く紐付けされていたようである。それがわかった要因は、昨年に友人からかけられた言葉である。その日、私は試作した中央の画像をステッカーにしてMacbookに貼って使用していた。それを見た友人からは、「色だけでも光(私の名前)ってわかる」「ついに色面になったの(笑)」などの声をうけた。その直後は、この図でも個人が認識できるとコメントされたことが単純に嬉しかったのだが、考えてみるとここで起きたことは、「形の放棄」であったではないかと思ったのである。

 数色の色面のみで何かを表現するということは、抽象絵画の発生から既にある手法である。私はピエト・モンドリアンの《赤、黄、青のコンポジション》が好きで以前国立新美術館でそれを見た時は大変感激したのを記憶している。さらに、佐藤可士和の手がけた《Smap》の一連のデザインはあまりにも有名である。前者は絵画が「形」を放棄した作品であるし、後者も広告デザインが写真やイラストなどの「形」を放棄した試みである。そこにただあるのは数色の色の組み合わせだけであり、色の情報のみがその作品の意味を示している。上図の中央のアイコンも、左の元の画像から主な色を3色抽出して構成した。そしてアイコンが形を放棄したとしても、他者の脳内はその図像と私自身の情報とを確実に紐付けた。これは、色(及びその組み合わせ)が人に対して大変に強い情報や印象を与えているということに他ならない。

 中央のアイコンは、視覚表現における三要素「色・形・構成」のうち、「色」だけによって表現したものであるとその時は考えていた。しかしさらに考察を進めると、それは違うのではと思ったのである。この画像において、3色を表しているのはそれぞれの矩形という「形」であり、それらの大小の組み合わせは3色のリズム、「構成」である。それらを完全に放棄しよう思い再び手を加えてみるると、右のように青一色のアイコンになったのである。このブルーただ一色が、私のアイコンとして機能し、他者の脳内で私と紐付くことを、今は期待している。

 こうして、「色」以外の要素をすべて排した、単色アイコンを試験的に使ってみる運びとなったのである。いざ単色のアイコンを使用してみると、その画像のFacebookやLINEの画面上での異様な目立ち方に自分でも驚いた。形と構成を放棄し、情報量が明らかに少なくなったはずの単色アイコンが、むしろ顔写真やイラストなどのアイコンの中ではむしろ目立ったのである。しかし、あるはずのもの(形や構成)がないことで、逆に対象が目立つというような状況は、これに限ったことではない。ごちゃごちゃとしたビル広告の中に、白紙にぽつんと「広告募集中」と書かれているものが存在すると、異様に目立つことがある。他にも、「あるはずのものがない」という驚きを引き起こすことを目的とした新聞広告等が、複数存在する。それらが目立つのは、周りにはあるものが突如としてなくなったからであり、単色アイコンが異様かつどこか不気味に目立つのも、「あるはずのものがない」と人が感じるからなのではないだろうか。

 以上の説明を終えて、「単なるアイコンに大袈裟な」と思われるだろうという考えが脳裏をよぎった。しかし、ただのプロフ画像の変更でも、その経緯を踏まえて言語化・解説してみると、また新たな面白さが発見できたと思うのである。色のアイコン性については、今後も考察していきたいと考えている。

vimeo

動作演習-キネティックアート(2016)

the strata

統合デザイン学科パンフレット(2016)掲載

オープンキャンパス(2016)展示