photos-nocturnes

‘Those Who Speak’

Original Photo by Nocturnal Radiance Photography

Coat and Shirt by lyn-hargreaves of Dehlia Designs

Cosplay and Editing: mrbob0822


Props to David Gaider, Alexander Freed, and Chad Hardin for making a pretty cool setup for Alistair that I couldn’t resist cosplaying from the Dragon Age comics from Dark Horse:

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V/T Performance Graphics: 2013 All That Skate Exhibition Program | Nocturne by The Secret Garden

"We will fly to the sky
We don't have to wonder why
Always be, always see
Come and dream the night with me
Nocturne."

“A gentle story of two loving hearts.” [x] {images 1 2}

EVENT REPORT: AM Projects「Abstracts」Book Launch Artist Talk & Demonstration by Daisuke Yokota

text = タカザワケンジ

photo = 小林翔


「デジタルカメラの登場でフィルムは“記録”から解き放たれた」


写真は「いつ」できるのだろうか。撮影の時か、現像された時か、プリントされた時か。あるいは、それが写真家を含めた人間に「見られた」時か。デジタルになってからは現像というプロセスはカメラのなかで自動で行われるようになったが、シャッターボタンを押したときか、その像が見られた瞬間かという問題は残っている。

しかし、この日、私を含めたイベントへの参加者たちは、写真作品が生まれる場に立ち会った、という実感を持ったと思う。

2015年6月27日(土)、VACANTで開かれた「AM PROJECTS『ABSTRACTS』BOOK LAUNCH ARTIST TALK & DEMONSTRATION by DAISUKE YOKOTA 」でのことである。私はこのイベントで横田さんのトークの聞き手と進行役を務めたのだが、あらためてイベントを振り返ってみたい。


イベントは、横田さんが所属している国際的な写真家集団「AM Projects」の二冊目の写真集「Abstracts」(Adad Books刊) の刊行を機に開かれたものである。

「AM Projects」のAMとは、英語の”After Midnight“ (真夜中のあと) と、ラテン語の “Ante Meridiem” (正午よりも前=午前) を掛けたものだという。

1冊目の写真集は、その活動時間にちなんで、夜想曲、夜景の意味がある『Nocturnes』だった。2冊目となる今回は『Abstracts』。抽象表現である。参加メンバーは横田大輔のほか、Antony Cairns(アントニー・ケアンズ)Tiane Doan na Champassak(ティアン・ドアン・ナ・チャンパサック)Olivier Pin-Fat(オリヴィエ・ピンファット)Ester Vonplon(エスター・ヴォンブロン)。それぞれイギリス、フランス、イタリア、スイスを拠点としている。

横田さんが彼らのプロジェクトに参加したきっかけは『Back Yard』というZINEをインディペンデントの写真集を紹介するブログ「The Independent Photobook」に送ったことだった。「The Independent Photobook」で『Back Yard』が紹介されたことから、「AM Projects」から招待メールが届く。そこにはギャラリーなどでの活動とは別に、作家が連携して写真集を刊行したり、展覧会を開く、あるいは写真フェスティバルやフェアで発表するという設立意図が書かれてあった。トークのなかで「AM Projects」について横田さんが語った言葉を引用しておこう。

タカザワケンジ(KT): 作家同士がこうしてゆるやかなつながりを作りながら活動するプロジェクトはよくあるんですか?


横田大輔(DY): インディペンデントで活動をしている作家同士のコラボレーションはよくありますね。ZINEであったりとか。コマーシャル・ギャラリーでの展示ではなくて、作家としてどういう活動ができるかを考えている人は多いと思います。


KT: コマーシャル・ギャラリーで作品を発表し、売るということはビジネスとしては重要だけど、それだけではなく、自主的な活動もしたい。そのとき、仲間を募って刺激し合えたら、というグループなんですよね。


DY: そうですね。作品を売るということが前提にはなっていない。そこには良いところ、悪いところの両方があるとは思うんですが、作家同士なら純度が薄まらないということはあると思いますね。


KT: 作家たちの拠点は世界各国バラバラですが、どのようにしてコミュニケーションを取っているのですか。


DY: 基本的にはFacebookのグループ・ページでのやりとりですね。そこでいろいろ相談し合ったり、イメージを送り合ったり。みんなおしゃべりで、すぐにタイムラインが埋まっていくんですけど、僕一人だけ英語があまり読めない(笑)。タイムラグがありますね。最終的な判断を求められたときに、YesかNoか。答えを出す感じです。


作家たちの拠点が散らばっているように、協力者たちも拡がっている。1冊目の『Nocturnes』の出版元はドイツのdienacht Publishing、2冊目の『Abstracts』はロンドンのAdad Booksと異なっている。


DY: dienacht Publishingは「dienacht」という写真雑誌を出しているドイツの出版社で、制作費を出してくれました。作家にはギャラの代わりに現物支給です。Adad Booksは女性二人の出版社。どちらも作家からのつながりですね。毎回、協力者を募っていこうと言っていて、これもある意味でコラボレーションです。それぞれの国で活動しているだけでは、ほかの国の細部へ写真集を届けるのって難しいじゃないですか。情報も入ってこないし。メンバーのバックグラウンドが多様であることの利点は、その人個人が持っているつながりや、属しているコミュニティが生かせることだと思います。一冊ずつ出版社を変えたり、不規則にすることもつながりの可能性を広げるきっかけになるんじゃないかなと思いますね。


『Nocturnes』『Abstracts』は出版だけでなく、フォトフェアへの出展や展覧会も行っている。『Nocturnes』はアムステルダムのフォトフェア「Unseen Photo Fair 2012」と、オランダにあるNoorderlicht Photographyというスペース、『Abstracts』は今年の5月にロンドンのCopperfield Galleryでそれぞれ展示をしている。


KT: 展覧会の設営には会場に全員が集まるんですか?

DY: いえ。僕は行ってないんですよ。

KT: では、横田さんはプリントと展示プランを向こうに送って?

DY: 展示プランはそうですね。Noorderlichtでの展示ではプリントはデータを送って向こうでプリントしてもらいました。

KT: モノはまったく送っていないんですね。それで展示できる。「オリジナルプリント」にこだわる作家にとっては信じられないことかもしれない。

DY: このスペースは確か非営利だったので、作品販売もなかったと思います。制作に関して印刷や額装をしてくれて、という感じでしたね。

KT: ギャラリーで展示して作品を販売するとなると、プリントの物質性も大事な要素ですが、展示をするということだけを考えれば、そうやって複製が容易な写真の強みを生かすことができますね。世界中どこでも同時に展覧会ができるというような。

DY: 実際、そういうかたちでやることは増えていると思いますね。

KT: ギャラリストの関わり方はどうなんですか? Copperfield Galleryはコマーシャル・ギャラリーですよね。

DY: 会場提供してくれているという感じですね。今回の出版社のAdad Booksの編集者が以前からこのギャラリーと知り合いで、色々と協力してくれました。


『Abstracts』は抽象表現をテーマにした作品集だが、横田さんはそこにこれまで発表してこなかったカラー作品を出している。2年前から制作を始め、発表のタイミングを待っていたそうだ。「今回、アブストラクトというテーマなので、内容的にも合うかな」と考え、発表したという。


KT: 「AM Projects」のメンバーたちの作品を見ると、問題意識に共通したものが感じられますね。写真の物質性、写真のあり方に対する問いかけです。横田さん自身もそのあたりに共感して参加したということですよね。 

DY: このプロジェクトに参加しているメンバーは、もともとドキュメンタリー作品をつくっていた写真家が多いんですよ。たとえばオリヴィエ・ピンファットは「VU」というフォト・エージェンシーに所属していたんです。「VU」はいまはギャラリーもやってますけど、もともとはフランスのマグナム・フォトのような。

KT: 老舗ですね。

DY: いまは抜けてるんですけど、以前オリヴィエはそこにいたり、現在エスターもそこにいて。ティアンもドキュメンタリー映画を制作したりしていたんですね。だけど、ドキュメンタリーの約束事に縛られない作品作りを模索し始めたと聞いたことがあります。ですからベースとなる写真はドキュメンタリー性が強く残っている人が多いんですが、そのうえで撮影で記録したイメージを操作して、印画紙の紙のマテリアルを強調したり、フィルムの乳剤を溶かして使ったりしています。たとえばエスターは、8×10とか4×5のポラロイドを使っているんですが、雪山で撮影しているので、乳剤が凍るらしいんです。それが溶けたときに、乳剤のマテリアルが強調される。写したはずの雪山の上を侵食していく。いま現物として目の前にある紙というマテリアルが、過去の記録という時間を侵食していき、現在の現象の時間がその上を覆う。記録性をさえぎるものであり、同時により抽象的なイメージへと移行していく。そういうエフェクトを使うという技術に関しては「AM Projects」の作家たちは共通していると思いますね。

KT: フィルムが現実を記録する機能があるということは僕らもよく知っているわけですけど、それは一度記録されてしまったらずっと残っていくものだと信じているわけです。でも、実は危うい。物質である以上、時間とともに変化していく。そこで生まれてくるイメージは何だろう? 面白い問題意識ですね。 

DY: そこには前提として、写真における記録性の重要度の序列があると思います。写真は記録性があるからこそ、マテリアルの存在が強く生きてくる。でも、本来、記録って漠然としているわけじゃないですか。手に触れないし、絵柄としては厳密に再現されたとしても、そこに存在するものは紙の上に乗ったイメージでしかない。紙やフィルムっていう具体的な物質が目の前にあるにも関わらず、その表面のイメージを見てかつてあった何かしらの現実を感じている。その逆転が面白いと思うんです。

KT: その話を聞いていると、どうしても森山大道さんの『写真よさようなら』を思い出してしまいます。パーフォレーションまで写り込んだフィルムや、何を撮ったかもわからないような露出の狂ったイメージ、ゴミだらけのプリント。写真はモノでしかないということを強烈に感じさせる作品ですが、フィルムしかなかった時代に森山さんがやっていたことと、デジタル時代に横田さんがやっていることはどのような関係があると思いますか?

DY: これが回答になるかはわからないんですが、僕の話をすると、写真を始めた頃には森山大道さんがすごく好きで、真似のようなことをしていたんです。でも、このままじゃものにならないなというのはわかっていました。それまでフィルムしか使わないぞと思っていたんですが、デジタルが主流になったときに、これを機会にやってみるかとデジタルカメラに換えたんです。やってみたら、お金の制約はなくなるし、どんどん撮れる。フィルムカメラと比べて異常な量を撮れるようになったんですね。そうすると、一枚一枚への意識がある意味では、自由になったというか。

KT: 一枚一枚への思い入れが消えた?

DY: そうですね。フィルムで撮るには時間もお金もかかる。ミスはできない。それまでは自分でイメージしたものを写真で再現するという意識だったんですが、デジタルになったときに、そこから解放された。身の回りのものをどんどん撮っていこうと思ったんですね。そして撮った写真を見返す、編集するということもせずに、一、二年ずーっと撮りつづけて。まあ、まあ、それなりの量に。 

KT: 膨大な量でしょう(笑)

DY: たまってきたので、じゃあ、あらためて見直そう、と見返したときに、撮った時に想定していたものとは違うものがたくさん写り込んでいた。それはその頃の自分にとってはネガティブな要素としてあったので、じゃあ、そのネガティブな要素を消していったらどうなるか。マイナスの要素を削除していくことで、自分の興味を明確にしていこうということをしていったんです。

KT: 画像処理でプラスするんじゃなくて、マイナスしようと。

DY: そうですね。削除していこうと。それで、フォトショップを使うようになったんです。

KT: 初期の作品は横田さんの公式サイトで見られるんですが、人間が輪郭だけになったり、「これ写真?」というイメージになっているんですよね。それくらいマイナスしてる。


DY: グラフィック的というか。人とか街の輪郭だけ残したのは、そこまで消していっても写真的なものが残るのか? そこに残る写真性とは何なのか? と考えながらやっていましたね。

KT: そこまでマイナスした後で、また情報量のある作品に戻っていくわけですよね。

DY: そうなんです。たとえば、輪郭化した人の形といっても、それは僕が描いたものではないので、ある種の偶然性、写真的なものがその輪郭としての姿に残ると思いました。それは発見としてはよかったんですけど、結果的にはやはりグラフィカルな画像になってしまう。じゃあ、ここに写真的な要素を含ませていくにはどうしたらいいだろう。そこで考えたのがプリントアウトしたものに対して傷をつけていくことでした。プリントに時間を含ませる、痕跡を残すってことが、写真の記録性という特徴を含ませることになるんじゃないかと。

KT: 傷をつけることが時間を含ませるとは、具体的には?

DY: コピー機で印刷したものを水に長時間つけてデロデロにして、丸めてからまた伸ばして乾かす。そうすることで時間をねつ造するというか。


KT: あとから時間を「足す」んですね。できたてのプリントであってもぐちゃぐちゃぐちゃにすることで時間が経ったように見えるし、事実、そこにはダメージを与えられたという時間が刻まれているとも言える。


DY: 最終的なかたちとしてはまた複写するんですけど、かつての記録はぐちゃぐちゃになっている。ダメージがあるものを複写するということは、複写する以前に傷がつくに至った時間が存在するという証明なんじゃないかと。


KT: そうか。つまり、写真って、ふつうは、フィルムや、デジタルの場合なら撮像素子に、その瞬間を定着させるものだけど、横田さんはその瞬間の画像から情報を削除していったあとに、像を定着させた紙をぐちゃぐちゃにすることで、時間を加える。


DY: そうですね。

KT: 撮ったときの時間から経過した時間ではなく、別の時間を足している。あるいは、そこに時間が足されているように見える。だから「ねつ造」なんですね。写真に撮ることで、加えた時間が可視化される。たしかに写真ならではの発想です。


DY: その行為はいまの制作手法のもとになっています。いまやっているのは、一回デジタルカメラで撮ったものを出力してアナログカメラで複写して、高温現像によって、荒れた粒子とかを元の画像に上乗せしてつくっていくというやり方です。


KT: 最初の写真集『site/cloud』(artbeat publishers刊) や最近の『VERTIGO』 (Newfave刊) などがそのやり方ですね。では、今回の『Abstracts』は?


DY: 今回のカラーのシリーズは撮影はしていません。軽く露光させただけの4×5のフィルムを現像のタンクに2、30枚詰め込んで熱湯で溶いた現像液で現像しただけです。

KT: 今回のカラー作品は撮影はしていないんですか。化学反応だけなんですね。

DY: 撮影行為があるとないとでは大きく違うな、と今回感じましたね。『Abstracts』の写真集を見ていて気づいたんですけど、僕以外の作家は撮影行為をしたうえで、紙やフィルムのマテリアルを強調してイメージを作っている。その抽象性は物質の傷やダメージなんですけど、その奥に山や建物や人物が写り込んでいます。写っているものに気づいたときに、抽象的な表現が、写り込んでいるモノを見せるうえでの視覚効果に見えてくるなと思ったんです。
一方、撮影していない僕の作品は、それとはベクトルが逆。なぜならここには記録がないんですよね。これがフィルムを何か処理したものだとはわかると思うんですが、その模様であったり、傷であったりするもののから山や森、建物を連想する。そう見えてくる。撮影をしていないことによって、風景は固定されずに自由に読み取れるかたちになったのかな、と。


KT: 面白いですね。ほかの作家たちは、現実を抽象化しているけれど、見る側はその抽象化をエフェクトとして見てしまう。一方、横田さんの作品は対象となる現実がないがゆえに、フィルム表面から見る側が勝手に現実的なものやかたちを読み取ろうとしてしまう。たしかにベクトルが逆ですね。そして、こういう事態は写真でしか起こりえない。横田さんのカラーの抽象作品を見て、これは写真じゃないと言う人もきっといると思うんです。でも、イメージを生成するという機能は使われているわけだから、写真だとも言える。つまり、フィルムを使っている以上、写真じゃないとは言い切れない。ということは、フィルムを使うということが写真であることの本質なのか、という問いが生まれるわけですよね。写真とは何か? という問いは繰り返し問われているわけですけど、支持体がフィルム、撮像素子を使っていれば写真になってしまうのではないか。だったら撮影行為ってなんだろう、という話になりますけど。


DY: デジタルカメラが出てきて、もはやフィルムを使う必要はないですよね。一般的にフィルムよりもデジタルのほうが簡易性、スピード、描写、どれをとっても優位なわけじゃないですか。すでにフィルムで記録する必要性がなくなっているとも言える。だとしたら、フィルムは記録の呪縛みたいなものから抜け出せてきたという見方もできると思うんです。


KT: いまの横田さんの話を聞いて、絵画と写真の関係を思い出したんです。写真が発明されたときに歴史画家のドラロッシュが「今日を限りに絵画は死んだ」と言ったそうですけど、実際には絵画は死ななかった。むしろ現実を引き写す写実的な役割を写真に任せることで、写実から解放されて新たな発展を遂げた。そう考えると、横田さんが言うように、デジタルがあったからこそ、フィルムがより自由に使えるという可能性が出てきたと言えるかもしれない。


DY: フィルムって、いままでいかにその存在を消すかっていうことに重きが置かれていたはずですよね。


KT: いかに微粒子にするか、それが写真であるということを見る人に意識させないか、をめざして技術開発が行われていった。


DY: いかにフィルムの存在を透明にさせるか。そのために、いろいろな技術の更新がされてきたたと思うんですが、本来の目的とは別のやり方で、その素材の特性を引き出せるんじゃないかと思うんです。というのも、このシリーズを始めて、現像という化学反応の結果に驚いたんですね。すごく肉々しい。いままでは皮膚として、表面で表現するためのものだったのに、その表面を破いてみたら、血なまぐさいようなマテリアルが出てきた。そこにすごい驚きがあって。うーん(ため息)、まあ、なんていうか。

(観客、笑)


DY: 興奮します(笑)


KT: 興奮が伝わってきましたね(笑)フィルムには色の感光層が三層あってそれをゼラチンが保護していて、というのは模式図で見たことはありますけど、それがこうして化学反応を起こした姿になると、さまざまな現実を仮託できるイメージになるのは驚きです。自然の地形や岩のようにも、オブジェのようにも見える。何かにかたちが似ているとか、結びつけて考えてしまう。それは私たちの脳がそう認識するわけで、見ることの不思議さにあらためて気づかされます。


この後、このイベントのために作られた限定版の写真集『Cell』について横田さんから説明があった。一枚の作品を56分割して中綴じの写真集にしたもので、4種類。分割は機械的に行い、横田さんの美意識は反映されていないが、それでも、見る側はそこにさまざまな連想を生むイメージを「発見」できる。


そこで、あえて聞いてみた。


KT: こういう作品って、ある種の人にとっては耐えがたいことなんじゃないかと思うんです。というのは、写真は世界の断片を切り取るわけですけど、そこに写真家の美意識あるからこそすばらしいんだという考え方があるわけです。たとえば、カルティエ=ブレッソンの写真の魅力というのは、カルティエ=ブレッソン以外には撮りえないイメージだからであり、だからこそ価値があるということですよね。でも、横田さんの作品は撮影はしていないし、フィルムを現像して、どんな像が上がってくるかはわからない。しかもそれを自動的に分割して写真集をつくる。さらにそれに値段をつけて売っている(笑)それってほとんど偶然でしょう?作品なの?と思う人っていると思うんですよね。それに対して横田さんはどう思っていますか?

DY: 僕は、むしろ、自身の決定とは別の部分に可能性を見いだせないかなと思っているんです。というのも、たとえば、フィルムで撮っていた最初の頃は、理想的な絵柄を想像して、撮影や暗室の技術でそれに寄せていくということをやっていたんですけど、結局、自分の頭のなかにあった理想的なイメージのほうがいいんですよね。頭の中にイメージがあるにも関わらず、それに劣るイメージを再現していくことはつまらない。僕はそう思うんです。だったら、僕が思っている結果に対して裏切るような結果になるほうがエキサイティングだと思う。自分の予想を裏切った結果を改めて見たいという欲求としての撮影だったり、作品制作だったりするほうが魅力的だと思っています。

KT: 「予想を裏切る」は写真の特性でもありますよね。そして、偶然にできたものとはいえ、面白さを発見するのは、最初に「見る」作家自身。イメージをピックアップすることが重要だと思います。いま、写真を撮るということにも増して、写真を「見る」ことがいかに大きな割合を占めているか。自分で撮ろうと撮るまいと、写真の可能性を見出して、構成して、写真集なり展覧会なりのかたちにして発表すること全体が写真作家の仕事だと思います。

DY: たしかに「見たい」欲求のために撮るみたいなこともありますしね。自身の理想的な絵を撮るとき、そこには必然的に「見せる」という意識が入ってきてしまいます。それを見る人は、「見せられている」という受動的な感じがあり、自由に見ることを妨げてしまうと思うんです。そうではなく、もっと無防備な状態として、能動的に「見る」ことを可能にしたい。世の中にある商品や製品のほとんどは用途がはっきりしていて、意味内容が先行して入ってきますよね。そこで僕たちはものを「見る」という行為は必要じゃなくなるわけじゃないですか。ところが、たとえば壊れたものに対して、僕たちは用途とは無関係の、素材であったりかたちであったりを改めて「見る」ことが可能になる。僕は個人的にそういうものに対して魅力を感じるんです。作品を作るときにも、そういう部分をどれだけ残せるかが重要だと思っています。

いよいよ作品制作のデモンストレーションが始まった。


実際にこの場で『Abstracts』に連なるシリーズが制作されるのである。すでに会場には分厚いアクリル板にフィルムが並べられていたが、それと同じやり方で「現像」するという。


現像タンク2本には4×5のフィルムが20〜25枚入っているそうだ。フィルムの種類はモノクロ、カラーネガ、カラー・リバーサルとさまざまで、なかにはネットオークションで落とした期限切れの古いフィルムもあるという。


電気ポットで湧かした熱湯で、富士フイルムの現像用薬品スーパープロドールを溶き、現像液をつくり、現像タンクに注ぎ込む。


iPhoneでタイマーを5分にセット。ゆっくりと三度振って置き、しばらく待つ。


横田さんに聞きながら実況をしていくと、ほとんど料理番組のようになってしまったのだが、そもそも暗室はどこか料理に似ている。


5分後、現像液を少し捨てる。しかし、現像を続行。捨てた現像液のなかにゼラチンが溶け出していなかったので、まだという判断とのこと。


少し待って捨てた現像液には、たしかに細切れになったゼラチン質が浮かんでいる。


続いて、現像タンクに定着液を入れる。一般の現像プロセスでは現像と定着の間に停止薬品を入れるのだが、停止はしないほうがいい結果が得られるらしい。


定着を所定の時間で終え、いよいよタンクを開ける。中から出てきたフィルムにはたしかに抽象的なイメージが描かれている。水を張ったバケツのなかで「水洗」。フィルムは重ねて入れてあるので、現像プロセスでくっついてしまったフィルム同士を剥がすのに苦労していた。


こうして水のしたたるなまめかしい色の「写真」が完成した──のだが、その濡れたままのフィルムをスキャニングし、プロジェクターに投影するまでまだ終わらなかった。


化学反応を起こしたフィルムが写真なのか。そのフィルムをスキャニングしたデジタルイメージが写真なのか。そのデータをプリントアウトしたものが写真なのか。

写真は「いつ」できるのか、という問いを残したまま、イベントは幕を閉じた。

画像:デモンストレーションで実際に制作された作品


Purchase “Abstracts” signed by Daisuke Yokota

Purchase “Abstracts” signed by All 5 Photographers 

Purchase “Cell” by Daisuke Yokota

Photo taken from my own magickal practice whilst doing necromantic practice for a family member which was very successful. It can be frightening to allow another spirit or entity within to communicate with others. However it can be done but I do recommend strong protection and to have complete trust in whom you are doing it for.