matsuda matsuo

私的二つの風景

 絵はだれのために描いているのかときかれることがある。そんな時私は、自分のためにだけ描いていると答えることにしている。多くの人たちのためになどとは思っていないからだ。  

 しかし、そういいつつも私の意識の中には、私が信頼をよせている大切な二つの感性がある。長いつきあいのある方々で、その人たちを自分は納得させられたら、と常々思っている。

 今、名を明かすことに、なぜかこだわるが、決して高名な美術評論家や芸術家ではない。しかし、美術からは遠くないところで生活している田舎のひとである。

 一人は男性で、もうひとりは女性である。画商である男性のU氏とは、私が絵を描き始めたころからのつきあいである。

 いつも私は、彼の識見や作家の本質を洞察してしまう力に、心から敬服してきた。

 いろいろな作家とその表現について、表層――きらびやかさや、美しいだけの調和、もっともらしい前衛、新しそうなだけのもの、風土をよそおうもの、ことばで語るような思想や詩情などなど――の装いをとりはらったところで、ものをみることの大切さを教えられた。

 しかも、まだ海のものとも山のものともつかぬ若い表現を相手にしてである(数年後になり、それが実証され、私なりに納得させられた)。

 何よりも、私が感心したのは権威の目がまだおよんでいないうちに、発見する「眼(め)」を持っていることである。一方、過去の歴史的な系譜の作品とつねにつきあわせて、その表現の質を問うことを忘れなかった。そして、その時の作品の善しあしよりも、作家の個人史の内容を問題にした。

 が、なぜか作家が有名になると、U氏は興味をうしない遠ざかっていく。

 私は、山のように信じられるそんなU氏と、時折会って話をするのが、無性にたのしく勇気がわく。

 私は生涯をかけても、この人の眼に、何とかこたえられるものを創(つく)りたいと願っている。

 もう一人は女性でTさんといい、U氏とは違うところで私は魅(ひ)かれている。  

 誤解をおそれずにいうと、もう十数年、この人の感性を信じているものが私の中にある。美術についての多くの知識や、すぐれた作品を描いているわけでもない。ただの女(ひと)という方がふさわしい。

 が、その人のもっている健康で硬質なものの陰にひそんでいるゆれうごく不安な魂に、私は詩を感じ、青白くて熱いやさしさをみている。

 他者がそれを発見しているかどうか、私は知らない。あくまでも、私だけの感じ方なのである。

 十八年ほど前、最初に絵を描こうとしたとき、私は自分の生まれ育った風土は描くまいと心に決めた。だが、具体的に自分が肌で感じた北国の冬の、あのはりつめて、「カーン」という音のしそうな、しばれるような感性をした表現になればと念じながら、描きつづけた。

 しかし、そのような感覚を、自分の身体の中にいくらかでも保持しておれたのは、絵を描き出してからの六―八年ぐらいまでであった。

 それは、雪の上を歩くと、簡単に転んでしまうという事実によって、自分が東北の人のもつ、そんな生活の感覚を失っているのを知らされた。

 東北の人は、容易に転ばないのを考えると、私の肉体は、東北からはるか遠いものになっていることの証(あかし)であった。

 十数年も住んでいたあたたかなこのいわきの風土に、私の意志とは関係なく、肉体だけが勝手になじみはじめていたということか。

 そのことが私は不安で、失った感覚をもう一度身体の中にとりもどしたいと、冬になると恋するように度々東北へ足を運んだ。

 が、そんな私の気持ちとはうらはらに、肉体は容易にそれを受け入れてはくれなかった。

 (私は、身体の中から消えてしまったものに、いつまでもすがりついた表現をするのはうそになると知りながらも…自らの思いをすてきれなかった)

 自分の感性をかさねあわせるべき対象を失って、混沌(こんとん)としたその数年間が、私にとって一番容易でない時期であった。

 そんな折に、Tさんと出会い、表現したいものの具体的な質感を、彼女の精神の中に感じた。

 それは、かすかな緊張を保った北国の冬のうすい霧のようでもあり、ひんやりした透明な空気のようにも感じられた。

 以来、消えてしまいそうな一条の蜘蛛(くも)の糸をたどるように、自分勝手に、私の感性がTさんの透明な精神にまでかけのぼり、重なるように努力した。  

 他者から見れば、平凡でなにほどのものにもみえないかもしれないが、私は、そんなTさんの魂と、自分の作品がきびしく対峙(たいじ)出来るかどうかだけを、いつも自分に問うてきた。

 ここ数年、やっと私の身体が、平たんで退屈なだけと思っていたいわきの海にもなじんできた。そのうえ、最近になり、彼女の中にもかぎりなく広くて深い海を、私は見たような気がする。

 二人にとっては迷惑なことかもしれないが、U氏もTさんも、私には、自分が帰るべき、なにものにも替えがたい大切な風景なのである。私はそれを失いたくはない。

(1984年8月27日 いわき民報・月曜特集 ペンと絵筆と 35  松田松雄)

顔のない女

 温泉というのは、すでに自分の記憶の中から消えてしまっていたものを、再び肌で感じる近さまで、みずみずしく蘇生させてしまうものであるらしい。

 身体を湯にひたすことで、躰内に水分を取り込み、今ではしなびて化石に近いことがらもゆるゆるっと膨らんでくる。

 出来ることなら、生涯、そのまま心の奥底にぼんやりとしたかたちで、そっと眠らせておきたいことまでも、である。

 この正月、オープンしたばかりの古滝屋に泊まった。夕闇が迫りさくさくと肌が冷えこむ頃、真っ先に九階屋上の露天風呂に足を運んだ。

 そして、風呂の中から点々と灯りの連なる市街地を挟んだ真向かいの、なだらかな丘を目にした時、自分がかつてあの丘の陰の辺に住んでいた、いや潜んでいたことがあったのを、ふと憶い出してしまった。

 あの時から何十年という歳月が経っている。私の人生も変わった。その間、幾度となく湯本の街を通り抜けている。その度、視界の中に、あの丘も入っていた筈である。が、これまで想い出すことがなかった。

 今から三十年ほど前の話で、常磐炭鉱の全盛期が過ぎようとしていた頃である。けれど、炭住長屋の方はまだ子供達であふれていた。

 私が居たのは、段々畑の丘の上の辺で、確か秋から冬にかけてで、もろもろの事情を抱えた、S市出身の女と一緒であった。湯本に土地感のある彼女の手引きで、空家になっていた小屋状の一軒屋に入り込み、何事かにおびえ、息を殺すようにして生きていた。

 どこにも出口のない状況の中で、血が出るほどに互いの肉体と肉体をぶっつけ合う、狂気のような生活であった。屋外に出るのは、人影もまばらになる夕刻になってからで、それも、丘の陰の下辺にあった、プーンと硫黄の匂う無人の共同風呂に入るためであった。それが唯一のたのしみであった。生活で必要なものは、その付近の店で求めた。しかし、ほとんど立ち寄ることがない程に、貧しい生活であった。

 電灯は無論のこと、道らしいものはなく、畑や土手をよじ登ると、いつかそこにけもの道のようなものが出来ていた。いつも闇の中を、二人で手探りしながら、登り下りした。そんな生活が三ヶ月程つづいたであろうか。

 そのうち、どちらからともなく別れることになり、互いにそこを離れて、私は元の生活に戻った。以後、彼女がどうしたか知ることも会うこともなかった。

 それから数年後の一九六七年、私は画家になることを決心し、すぐ創作だけの生活に入って行った。

 画家の生活にも少し馴れ染んだ、暑い夏の或る日、突然彼女が、小名浜のアトリエを訪ねて来た。

 そして、つかつかと上り込み、制作中であった私を無視し、一言も発せずに、描きかけのキャンバスにすばやく包丁をつきたて、翔るようにアトリエを出て行った。一瞬の出来事であった。玄関の風鈴が短冊を風のようにゆらして、チリリーン、チリリーンと小さな悲鳴をあげた。

 理由が何か、私は今以ってわからない。そして、現実にあったことだけは記憶にあるが、相手の女については、輪郭部だけがかすかに残って、肝心な顔が無いのである。

 

松田松雄

一九三七年に岩手県陸前高田市に生まれる。様々な職業を体験したのち、一九六七年の三十才の時、突然に画家になることを決心し、直ちに作家生活に入る。いわき市に移り住んで、今年で丁度三十年位である。一九七六年頃、自分の身体の中から東北が消えた、と自覚した時から、地方や東北の歴史と文化に興味と誇りを持ち始め、無名であることをおそれなくなった。また中央支配の文化構造に対峙する精神を、自身の中に求めるようになって、現在に至っている。

(月刊 かわら版 古滝屋 1993年2月1日 第2号 記憶の中から)